第4章 後継者

大正三年に入ると、正月早々、シーメンス事件で、日本海軍首脳部の収賄が暴露された。大杉栄、荒畑寒村等の「平民新聞」が再刊された。

多年不当な圧迫に悩んでいたアイルランドに、自治法が成立した。フランス社会主義運動の先駆ジャン・ジョーレスが暗殺された。

第一次世界大戦が勃発したのも、この年である。日本も連合軍側に参加して、青島(チンタオ)を占領した。
 
梅雨がからりと晴れた日の午後、近衛は織田を誘って、久しぶりで新京極をぶらついた。

寺町の鍵屋でお茶を喫んで、出町橋まで帰ってくると、陽はもうすっかり(かげ)っていた。

橋の手前に、「床春」といって、学生たちの間に人気のある床屋がある。そこの親爺は、デブデブ太った好人物で、暇さえあれば、店先の柳の下に床几をもち出して、相手かまわずに将棋を()している。

将棋好きの織田は、ちょっと立ちどまって、盤面をのぞいた。傍で、隣の車屋と近所の米屋の若い衆が観戦している。

近衛は、少し離れたところで、織田のために待っていた。そのとき、床屋と将棋を指している男が、盤面から顔をあげて腕組みをしたのを見て、その顔にどこか見覚えがあるような気がした。

その男は、床屋を相手に将棋を指しながら、髪はいつ刈ったかわからず、無精髭をのばし、よれよれの着物をきて、じっと盤面を睨んで、考えこんでいる。年齢も見当がつかないし、見たところ代書(人・行政書士)か何かのような感じだが、筋目のはっきりしない袴をつけて、草履をはいている。

傍へ寄ってみて、それは一高時代彼より一級下で、確か名前は菊池寛といったことを思い出した。そこで、近衛は彼の名を呼びかけた。

「よう、近衛君じゃないか」菊池は目をショボつかせながらいった。「ちょうどいいところで会った。君に知らせることがあってアドレスを調べてたところだよ」

「学生はん、こりゃ、差しきり(指し切り)や。この辺でもう投げた方が利口どっせ」

と、米屋の若い衆が、早く後を引きつぎたいためか、追い立てるようにいった。菊池も、アッサリ駒を投げて、立ち上がった。

近衛は織田を紹介し、三人並んで歩き出した。

「実はね、近衛君、最近成瀬から手紙がきてね、『新思潮』が発売禁止になったんだよ。それも君の訳したあのワイルドがいけなかったらしい」

東大の文科に入った山本有三や芥川龍之介から数ヶ月前に手紙で、今度自分たちで同人雑誌を出すから何か書けとすすめられ、その頃愛読していたオスカー・ワイルドのSoul of men under socialism(「社会主義下の人間の魂」)を訳して送ったのである。内容は社会主義よりはむしろ個人主義に近いもので、ただ題名にある「社会主義(ソシアリズム)」という言葉が忌諱(きき)にふれたのであろう。この知らせをきいて、近衛も一時はドキンとしたが、ここでも彼の“叛逆”が功を奏したような気がして、むしろ痛快であった。

「しかし、当局の方でも……」と菊池はいった。「君の身分を考えて、あまり世間には発表しないそうだよ」

近衛にとっては、このおせっかいな恩恵が(わず)らわしく、いまいましかった。

発禁問題が一段落すると、織田は、キューピーのように下ぶくれのした血色のいい顔を菊池の方へ向けて、いった。

「さっきの局面は、君の勝ちでしたよ。確かに即詰みの手がありましたよ」

「ほほう!」

と、菊池は、これは驚いたという顔をして、妙な声を出した。そしてその詰手をきいた。

織田は、歩きながら説明した。その内容は、近衛には皆目わからなかったが、どうやら菊池が納得したらしい。

「君は、なかなか、指すんですね!」

将棋に非常な自信をもっている菊池には、同じ学生の間に、しかも学習院出の公達(きんだち)に、自分より強いのがいるということは、大きな驚異であり、脅威でもあった。

「僕んとこの藩は、羽前の天童藩でね……」と織田は、大きなからだをゆすぶりながらいった。「廃藩置県の折、死んだ親父が、藩士の窮状を見かねて、内職に将棋の駒作りを奨励したんですよ。自分でも小刀を握って削ったそうです。だから僕は、手のひらに駒を握ってこの世に生まれてきたようなもんですよ」

「道理で強いや」

と、菊池は、駒を投げるような調子でいった。

「君、今何か書いてる?」

と、近衛は菊池が文学志望者であったことを思い出していった。

「三幕の脚本を一つ書いて、いま上田(敏)博士にみてもらってるんだが」と、いささか淋しそうな返事だった。

三高の前を通りすぎた角で、菊池は別れて、彼の下宿へ帰って行った。

近衛たちが、吉田山にかかったときには、あたりはすっかり暗くなっていた。

その晩、哲学研究会で、いつもの連中が彼の家に集まった。しかし、近衛はただ黙然ときいているだけで、何にも頭に入らなかった。今日菊池からきいた発禁問題が、頭に残っているせいもあった。

「欧州の戦争は、この調子では、どこまでひろがって行くかわからない。またどこの国でも、内部では幾つかの勢力が激しく対立し、相争っている。こういう時代に、『純粋経験』とか、『東洋的論理』とかいうことに、熱中していていいのであろうか。それは、恵まれた境遇にある知的貴族階級の暇つぶしの、いわば碁か将棋のようなものではあるまいか。もっと重要な、もっと切実な、人類や日本民族の運命に、直接のかかわりのあるような問題が、ほかにいくらでもあるのではなかろうか」

そこでまた、河上肇のことが彼の頭に浮かんできたが河上は今ドイツに留学している。米田庄太郎のサンジカリズム(労働組合主義、または組合運動)研究は、ただの紹介にとどまって、河上の場合のように、生きた血が通っていないからつまらない。といって彼には、今すぐ自ら街頭に立つ自信も勇気もなく、また恰好の相棒も相談相手もない。

彼の周囲には、木戸や石渡のように、高等文官の試験を受けるべく、営々として勉強しているものもあれば、織田や原田のように悠然とかまえて、その日その日を楽しんでいるものもある。彼の目から見れば、かれらは軽蔑すべきでもあり、また(うらや)ましくもある。

その後近衛は、大学の講義にはほとんど顔を出さないで、もっぱら思想関係の本をむさぼり読んだ。
 

夏もすぎて、秋も終りに近づいた頃、橋本実斐が訪ねてきた。小柄な好人物で、学習院では近衛よりも一年下だった。橋本伯爵家をついでいるが、ほんとは西園寺公望の若き日の落胤(らくいん)だといわれている。その頃西園寺は政界を引退して、京都の清風荘に住んでいた。原田も前から父や祖父の関係で、そこへ出入りしているということだ。かれらの間で近衛の噂がよく出ると見えて、西園寺が一度彼に会いたがっているということを、橋本は伝えた。

近衛は、桂よりは西園寺の方が好きだったが、昔から、近衛家と西園寺家とは極めて縁が薄く、文麿の父篤麿の晩年には、公望といわば政敵の間柄でもあった。それに当時西園寺は、公卿(くげ)出の若い層を一々テストして、自分の政治的後継者を物色しているという評判もあったので、その方に全然野心をもたぬばかりか、強く反撥している近衛は、田中村の清風荘の前を毎日のように通っても、ついぞ立寄る気がしなかったのである。

ところが、ある日の午後、自転車で植物園の方まで行った帰り途、学校から帰ってくる義照に会った。彼に自転車をひかせて清風荘の前まできたとき、急にその門の中へ入ってみたくなった。そこで、義照を一足先に帰らせた。

門の扉には、菊によく似た西園寺家の定紋が刻んである。(わき)のくぐり戸から入ると、玄関まで、きれいな玉砂利(じゃり)が敷いてあり、その右手に、楚々(そそ)たる矢竹の一叢(ひとむら)が植込まれている。

入口には、「清風荘 羅振玉(らしんぎょく)題」と篆書(てんしょ)で書いた扁額(へんがく)がかかっている。案内を乞うと二十歳ばかりの若い女中が出てきた。(これが原田からきいた「お花さん」だなと、近衛は思った)すぐに客間へ通された。

床の間には、富岡鉄斎の山水(画)がかかっていた。

西園寺は、くすんだ縞の羽織をきて、日当りのいい縁側で、小鳥の世話をしていた。しばらく客の方には眼もくれないで、鳥籠の糞を掃除して、餌や水をとりかえた。

これが終ると、急に改まって、

「これは、これは、近衛閣下、ようこそいらした」

と、馬鹿丁寧な挨拶をして、近衛を上座にすえた。近衛は面くらって、どうしていいかわからなかった。なるほど、家柄からいえば、近衛家の方が遙かに上だが、そんなことにこだわる西園寺でもあるまい。まして彼は国家の元老であり、自分は一介の書生である。何だか、からかわれているようでもあり、テストされているようでもあり、非常に不愉快になった。

相手が逆手にくれば、こちらも逆手で行ってやれと、近衛は腹をきめた。そしてその不愉快な気持を露骨に顔に表した。

だが、相手はいたって平気なもので、どこまでも下手に出て、ひたすら客のご機嫌をとろうとしているように思われた。

お茶とお菓子が出た。それがすむと、

「閣下、庭をご案内しましょう」

と、いって自ら先に立った。

左手に、深い樹立を背景に、男滝、女滝がかかっている。水は傍の太田川から引いているが、近頃上流に友禅工場ができて、濁って仕方がない、京都府庁では水道課に命じて、濾過装置をつくってくれたが、友禅の糊がとけこんでいるので駄目、いっそ疎水から引いてはどうかと親切にいってくれるけれど、そんな大袈裟なことは、時節柄、辞退していると、西園寺は説明した。

滝の前には一番(ひとつがい)の鶴が飼ってある。

庭の正面中央に、造園術の公式を破って大きな楓の木が頑張っている。ちょうど紅葉の盛りである。西園寺は、杖でそれを差して、この家も庭も、元々彼の生家である徳大寺家から移したものだが、あの楓は、彼が子供の頃よく登って遊んだものという。その頃の木で今も残っているのは、これと裏の(かや)の木だけだとのことである。

それから西園寺は、やはり徳大寺家から移してきたという茶室に案内して、その構造や格式やかつてそこに出入した人々などについて、いろいろ話してきかせたが、その頃の近衛には全然興味がなく、何にも頭に残らなかった。

ふたたび座敷にかえって、近衛が今どんな書物を読んでいるとか、個々の教授に対する感想とか、将来の志望とかをきいた。彼はいいかげんな返事しかしなかった。

驚いたことは、西園寺が彼の結婚のいきさつをよく知っていることであった。

「毛利家にしても華族ではないですか。それで反対するのは、する方がおかしい。わたしなんぞ、若いときは平民からでさえ卑しめられていた身分の娘と、本気に結婚しようとしたこともある。もっとも、これは実現しなかったが。思ったことを実現するだけ、今の若い人たちの方がえらい」

そこで近衛は、こんどは自分の方から、例の発禁事件をぶちまけた。ところが、これも相手はちゃんと知っていた。多分、原田か誰かがきてもらしたにちがいない。

近衛は、何だか馬鹿にされたような気がして、腹が立ってきた。そこで挨拶もそこそこに、清風荘を辞去した。後で西園寺が舌を出しているような気がした。

ただ、帰るときにも送って出た「お花さん」の顔が、妙に頭にこびりついて離れなかった。前にどこかで見たことがあるような気がすると思ったら、松井須磨子に似ているのであった。特にあの肉感的な口のあたりが。

白川の方へ帰る途中、吉田山の上をぶらぶら歩きながら、彼は考えた。

――そもそも西園寺家は、琵琶の家元で、昔「妙音院」と呼ばれたその道の天才藤原師長公から秘宝の伝授をうけ、同家の屋敷内に公を祀って、「妙音天」といった。これは音楽の神であるがいつのまにか京都の市民の間で、「弁財天」となった。さらにそれが琵琶湖の竹生(ちくぶ)島の伝説と結びついて、同家では正妻を迎えると、龍神の祟りがあるといわれていることは、近衛も幼少の頃から度々きかされている。

まさか西園寺家の方で、そんなことをいいふらしたわけでもあるまいが、この訛伝(かでん)は家元としての同家を神秘化する上に役立ち、当時はそれが同家の重要な生活資源であったろうから、あえて否定しないのみならず、逆に代々同家の当主は、少なくとも表面ではこの訛伝に添うような態度をとるにいたったのではあるまいか。

考えてみると、そういうことは、何も西園寺家の場合に限らない。多くの人々、特に世間からもてはやされている人々は、政治家でも、宗教家でも、学者でも、芸術家でも、多かれ少なかれ民衆の迷信に依存して、己を偽わり、民衆の幻想に添うよう自らを偽装することによって、それぞれの名声を維持しているのではあるまいか。

現に、西欧的自由主義思想の権化のようにいわれている西園寺が、その私生活においては、東洋における封建的支配階級の特権を十二分に享楽しているのである。二十歳の娘を奴隷的に奉仕させる六十七歳の老人――これが日本における最高指導者層の赤裸々な姿ではないか。

しかし、こう考える近衛自身の心理を分析してみると、そこには明らかに嫉妬がある。そして今のところ、潜在的にではあるが、心のどこかで、自らもその特権を望んでいる自分を見出して、彼は慄然とした。

 

明けて大正四年には、日本は世界大戦のどさくさに乗じて、中国に21ヵ条の要求をつきつけ、最後通牒まで発して、強引にこれを承認させた。中国各地に排日運動が燎原(りょうげん)の火のようにひろがって行った。また台湾大陰謀事件に判決が下って、九百三名が極刑に処せられた。

近衛より一年上の木戸、原田、織田、道家たちの組は、卒業して行った。

河上肇は、ベルリンで大戦に会い、パリに逃れ、そこから「祖国をかへりみて」という通信を朝日新聞に寄せたが、間もなく教壇に姿を現した。

帰国後の彼の講義は、前よりも一段と熱をおびてきた。前には広い意味での社会主義的傾向を示しているにすぎなかったが、この頃からマルクスへの傾倒が顕著にあらわれた。彼が留学中に身をもって体験した資本主義社会の矛盾、そこから起こる帝国主義戦争の不可避、新興プロレタリア階級の台頭、旧支配階級の没落、搾取なき新社会の実現――この公式は、歴史的必然の形をとって、おそかれ早かれ、地球上のすべての国、すべての民族に適用されそうな勢いを示してきた。

博士は、(その頃彼は学位をえて教授になった)「無我苑」にとびこんだと同じ情熱をもって、マルクスに思いをひそめ、その研究に没頭しはじめた。近衛も、しばしば博士の書斎を訪れているうちに、自分にも博士の熱情が乗り移ってくるような気がした。

「人はその志のためには国外に追放されるくらいのことは、始終覚悟していなくてはならぬ」

と、博士は始終口癖のようにいった。留学中にそうした実例を無数に見てきた博士には、すでにその決意ができていることは明らかである。だが、自分は、そこまで彼について行けるであろうか。

千代子を獲得したときのことを考えれば自分にもこれくらいの勇気はありそうな気がする。しかし、同じ周囲に叛逆するにしても、愛する女を手に入れる場合とちがって、思想的な叛逆が、特に封建的な絶対主義の支配下にある日本において、いかに大きな犠牲を必要とするか、その点に関しては、近衛はもちろん、博士の考えもまだ甘いもので、頭の中で空想された殉教の悲壮味に、自ら陶酔している程度であった。

近衛は、大学の講義にはますます出なくなった。したがって、彼の成績は、科目によって極端な差があり、百点に近いものもあれば、零点もあるという風だった。織田万とか、小川郷太郎とか、政治的野心のある教授は、後年日本の政界に予想される彼の地位を先物買いして、無条件で満点をつけるという評判が立った。また市村光恵教授は、学生のカンニングを見つけたところ、それが近衛公爵だったので、処置に窮したというデマがとんだりした。

そういう噂を耳にした河上は、前に自分が近衛に書物を贈ったのも同じ心理から出たものと解釈されることを恐れ、彼の場合は、近衛のような立場のものが、彼と同じ思想の陣営内に入ってくれば、その影響の大きいことを考慮したからであると、出入りの学生にもらした。これを伝えきいた近衛は、河上に傾倒する自分の気持に、水をぶっかけられたような気がするのであった。

近衛の家庭では、その年の4月3日に長男文隆が生まれ、翌年11月1日には長女昭子が生まれた。

大戦第二年目の欧州では、ほとんどすべての国々がこれにまきこまれ、戦況はいよいよ凄惨の度を増した。ヴェルダンでは、両軍死闘をつづけ、攻撃側の独軍は、50万の人命を犠牲にして、なおかつその目的を達しなかった。

一方各交戦国の内部では、民衆の動揺が激しくなってきて、ドイツでは社会党の平和運動が台頭し、イギリスでは、シン・フェーン一派(アイルランドのナショナリスト)の暴動が起こり、労働党の反戦平和運動が勢力をえた。

大正六年には、アメリカと中国がついに参戦し、名実共に世界戦争となった。一方中国は、またも四分五裂の状態となり、広東では新政府が成立して、孫文が大元帥に就任した。

各交戦国の内部不安は、ますます増大し、独英仏の軍需工場には大罷業(ストライキ)が起り、フランスでは、前線兵士が上官に反抗した。アメリカでも、I・W・W(世界産業労働組合)の首脳部90名が、罷業煽動のかどで逮捕され、長期刑を宣告された。日本でも、秀英印刷、浅野造船所等に大争議が起こった。

しかし、この年における最大の歴史的事件は、何といってもロシアにおけるプロレタリア革命である。首都ペトログラード(サンクトペテルブルグ)に起った食糧暴動は、たちまち全国にひろがって三月革命となり、ロマノフ王朝は崩壊した。ついで7月にケレンスキー内閣が成立、11月7日にボルセヴィキ革命が成功し、翌日全露ソヴェート人民大会を開き、レーニンが人民委員会議長に就任した。

日本の新聞は、かれらを「過激派」と呼んだ。

この年、近衛は普通より二年おくれて大学を卒業した。そして周囲からすすめられるままに、ひとまず内務省に入った。苦労して首尾よく高文をパスして入ってきた連中は、高等官七等だが“嘱託”の近衛は一躍勅任官であった。ここでも“公爵”がものをいうので、内心彼は苦笑した。もちろん官吏として栄達を望む気持は全然なかった。

大正七年になると、世界大戦は終幕に近づいたが、各国とも、国内情勢が甚だしく険悪になってきた。

ドイツ、ハンガリー、オーストリア等の皇帝は退位し、いずれも共和国となった。露国廃帝ニコライ二世及びその一族は、ついに革命政府によって銃殺された。ドイツでは、社会民主党党主エーベルトが政権を握り、パリでは50万人の大罷業が起こった。

日本では、米価が小売一升一円に暴騰し、富山県の一漁村に起った「米騒動」が、たちまち全国に波及した。

この年、東京帝大に新人会、早稲田大学に暁民会ができて、多くの青年学徒が革命的な陣営に走った。

こうした内外の情勢は、近衛を刺戟せずにはおかなかった。内務省の勅任嘱託で甘んじてはおれなかった。特に彼にとって、最大の関心の対象となったのは、日本皇室の問題である。

君主制というものは、今日の人類にとって、もはや過去のものであり、むしろ人類の今後の進展に有害であることが明らかになった。一国の統治というもっとも重大な任務が、偶然君主の子に生まれたというだけの人間に無条件で委ねられるということは、どう考えても不合理である。今度の大戦が示したように、自国のみならず他国をも破滅に陥れるような事態は、主としてこの不合理から生まれてくるのだ。日本民族が“万世一系の国体”を今も守りつづけているということは、ちっとも自慢にならないばかりか、この国の文化水準の低さを実証することにほかならない。

もしそうだとすれば、この不合理に奉仕することによって、その特権のお裾分けに浴している華族という存在は、もっと不合理な、むしろ滑稽なものではないか。

今や人類は、その愚かさを悟り始めた。全ヨーロッパを吹きまくっているすさまじい嵐はこの不合理の根をゆるがし、それをとり除き、主権を人民の手に取り戻しつつある。

その嵐は、なんどきこの東海の小島にも襲って来ないとも限らない。今日の日本はその嵐の前の不気味さを示している。いやすでに大木の枝はざわめきつつあるのだ……。

――こんな風に考えてくると、近衛はじっとしておれないような気がした。嵐が荒れ狂う前に、何とか手を打たねばならぬ。皇室とか華族全体とかをどうするかということは、今の自分にとって荷が勝ちすぎるとすれば、少なくとも自分とその家族の将来の運命について真剣に考えなければならない。

いずれにしても、自分にとって今一番必要なことは、世界を見ることだ。特に台風の中心になっているヨーロッパを見ることだ。そこには人類の到達した最近の姿がある。それをこの眼で見届けた上で、自分の今後の生き方を決めても、まだおそくはあるまい。

ちょうど彼がこの結論に到達した頃、新聞は来春パリで開かれる講和会議に、日本の首席全権として西園寺公望が列席する旨を伝えた。

これこそ絶対のチャンスだ。これを逸してはならぬと、近衛は考えた。そして大学時代の不愉快な印象がカスのように残っている西園寺だが、大急ぎで訪問して、随員の中へ加えてくれるよう願い出ることにきめた。

 

第3章 将門岩

 

このページの先頭へ▲

公益財団法人 大宅壮一文庫

〒156-0056 東京都世田谷区八幡山3丁目10番20号
TEL:03-3303-2000