第2章 亡命者

 長らく京都の大学病院に入院していた彼の母貞子が、偶然にも終戦の詔勅が降った8月15日に亡くなった。通信、交通関係の不備から準備がおくれ、やっと10月20日になって、近衛家の菩提寺である紫野大徳寺で、葬儀が行われることとなった。喪主である彼は、その前日、家族や親戚と共に京都についた。
 いつも泊る都ホテルは、すでに進駐軍に接収されていたので、御室(おむろ)の陽明文庫に車を走らせた。それは仁和寺(にんなじ)の山門前の大通りを西へ300メートルばかり行ったところの小山の麓にあった。保元の乱で焼かれたという禅寺の跡を切り開いて、白亜の書庫二棟を中心に、事務所と別荘風の住宅が建っていた。この書庫は近衛家秘蔵の古書、古文書約10万点を永久に保存するために、紀元2600年記念事業として建てられたものである。
 これがもし数年前だったら、近衛公母堂の葬儀だというので、それこそ大変な騒ぎであったろうが、時節柄ではあり、それに〝戦犯近衛〟の声があちこちに起りはじめた頃だったから、略式で、ごく質素に行われることになっていた。それでも、文庫の事務所は、相当ごったがえしていた。
 付属住宅の方は、当時すでに建築制限がやかましかったので、幾棟かにわかれて総計120坪ばかり、さすが近衛公のために、天下の住友が建てたものだというだけあって、戦時中の住宅建築としては最善の木口(きぐち)である。彼は、政界引退後、ここに引きこもって、先祖伝来の古文書を相手に余生をおくるつもりだった。
 そこの一番奥の茶室風の一室が、彼の寝所になっていた。彼が入ってくると、正面の床に、明日の葬式にそなえてか、どこかの和尚の書いた「南無阿弥陀仏」の掛軸がかかっていた。それをみて彼は、ちょっと顔をしかめたが、もちろん誰も気がつかなかった。それから彼は終日一人で、その部屋に閉じこもった。
 庭は、彼の好みにしたがって、自然のままになっている。鋏のはいらぬ小松とすすきが所々に生えているだけで、すぐうしろの山につながっている。
 黄昏が山の麓からしのびよって、東京では見られない白い庭土が浮きあがって見える頃、秘書の塚本があわただしく部屋に入ってきた。
「どうだった?」
 毛布をきて横になっていた彼は、起きなおってきいた。
「手筈がつきました。大市(だいいち)の方へお出ましの前に、お目にかかりたいとおっしゃっておられます。もう時間がございませんから、すぐにお支度を。」
まもなく、二人は、裏口からこっそり出て、暗くなりかかった松林の中に姿を消した。文庫の入口にたむろしていた護衛の巡査たちは、ちっとも気がつかなかった。
 二人をのせた自動車は、東に向って走り、さらに北に折れた。
 久しぶりで、廃墟に近い東京から出てきた彼には、まるっきり戦災をうけていない街というものが珍らしかった。明かるく灯のついた昔ながらの家並が、夢の中の景色か、映画のセットのように思えるのであった。
 急に車は、電車道からそれて、真暗な広い通りに出た。両側からこんもり茂った樹立がトンネルのようにせまっていた。中央の砂利道だけがほの白く浮いて見えた。
 やがて車は、大きないかめしい門の前にとまった。金閣寺である。
 かねて、うちあわせてあったとみえて、車がとまると横のくぐり戸が内側から開いた。二人はその中に吸い込まれて行った。
 長い廊下を通って、一番奥の方丈の間の襖を開けると、中に一人の男と三人の女がいた。
 男は洋服をきているが、その風貌は、明らかに中国の大人(たいじん)である。見たところ、いかにも朗らかそうだけれど、深い額の横皺の中に、多難な過去が刻みこまれ、口辺にただよう微笑のうちに、未来に対する不安のかげがうかがわれた。元南京政府主席代理行政院長  陳公博である。
 婦人の一人は、陳夫人の李励荘で、濃い紫の長衫(ちょうさん)をきて、その上にラクダのオーバーを羽織っている。少しばかりの白髪が目につくが、いたって若々しく、眼鏡の底でこまかく動く澄んだ瞳が明かるい表情をたたえている。
 他の婦人は、陳の秘書  麦国香と、塚本の妻ツイである。麦の方は若くて聡明で、近代的な中国のインテリ女性の典型のようにみえるのに反して、ツイはごく地味な服装をして、ひっつめ髪にした中年の主婦である。これで歯を黒く染めれば、封建的な自己犠牲に生涯を捧げた古い型の日本婦人の標本みたいであるが、どこかに勝気らしい性格を隠している。
 丁度いま、晩の食事が終ったところらしく、ツイはあとかたづけをしていた。紫檀(したん)の茶棚の上のラジオは声を落してはいるが、流れてくる音楽は、上海放送らしい。
 近衛が入ってくると、一同は起ち上って、挨拶やら、礼言やらをとりかわした。陳は英語で夫人は片言の日本語で。音に引きよせられてラジオに向った近衛の眼は、その傍にあったサントリーの瓶の上にとまった。夫人は目ざとくそれに気がついた。
「ウィスキー、どうも有難う。主人、たいへんうれしい。」
 それは、かれらの一行が日本についた日、近衛から贈ったものである。
 時間の余裕がないので、塚本が目くばせして、彼の妻をはじめ、中国の婦人二人を別室に退かせた。彼自身も近衛のオーバーをもって外に出て、自動車の中で待つことにした。別れの言葉をのべるために、室内をふりかえると、陳と近衛は、早くも食卓をはさんで、筆談の準備をすすめていた。
 門の外は真暗で、ただ右手の門衛の住居から、微かな灯りが格子を通してもれてくるだけだ。門のすぐ前には、小さな流れがあり、その上に、少しうわぞった石の橋がかかっている。流れは音をたてて、左手の森の闇に消えている。あたりは静寂そのもので、まだ宵の口だというのに深夜に似た感じである。
 塚本は、自動車のクッションにからだを埋めながら、あわただしかったこの一ヶ月の生活を思い浮べた。……

 陳公博一行が、飛行機で日本についたのは、9月の1日だった。いずれも着のみ着のままで、小さなトランク一つしかもっていなかった。陳夫妻と麦秘書の外には、元の南京政府宣伝部長で終戦当時は安徽省(あんきしょう)長だった林伯生、主計総監  何炳建、実業部長  陳君慧、行政院秘書長  周隆庠が加わっていた。塚本は近衛の命で一行を米子(よなご)飛行場に出迎えた。かれらを京都へつれてくる途中、嵯峨(さが)駅で下車し、一同嵐山の屋形船に乗って、終日水上でくらした。すっかり日の暮れるのを待って、自動車で京都に入り、かねて用意の隠れ家に、それぞれ分宿させた。その中で周秘書長は、日本語が巧みで、「中山」という日本名を名のっていた。
 さしあたり陳夫妻は、東山の麓、修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)の傍にある塚本の疎開先に案内した。塚本は「秘書」ということになっているが、実は近衛が京都大学に入って初めて家をもったときの書生で、それから三十余年間、封建的な忠実さをもって、彼の身辺に仕えてきたのである。塚本の家というのは、空襲がはげしくなった頃手に入れた農家で、比較的新しいのと近所があまりうるさくないのが取柄だった。表むきは東京で罹災した親戚というふれこみである。
 奥の8畳の座敷が、陳夫妻にあてがわれた。それは上方風の狭い庭に面し、その周囲には高い生垣をめぐらしてあるので、外から覗かれる心配はなかった。垣のカナメモチは、赤い秋芽をふいたばかりで、美しかった。
 陳は、着くとすぐ、つぎのような手紙をしたためて、塚本に託した。

近衛公爵閣下
昨日は塚本秘書官を派して私共をお招き下され、何ともお礼の申しようが御座いません。お蔭で京都に安着いたしました。ついては、今後東亜の問題につき、貴殿の御意見を聞かせて頂きたい。明白に、詳細に、御教示を仰ぎたい。只今は京都に安居して、この問題を考えつづけて居ります。両国の前途について、いつか貴殿の教えを受けたいと思います。取りあえずこの手紙を差上げて感謝の意を表する次第であります。
9月2日     陳 公 博 謹啓 

 以上は公式の手紙で、別に直接近衛公の耳へ伝えてほしいといって、つぎの伝言を〝中山〟通訳を通じて、塚本に口述した。

一、 このたびの脱出の件、決して個人的安全を計るための逃避に非ず、ただ一時身をかくす必要があるからです。
一、 蒋介石氏との交渉は、これまで間接ではあるが、度度ありました。
一、 日本側と打ち合せの上、一回だけ蒋氏宛に直接手紙を出しました。
一、 前にも谷公使より脱出をすすめられましたが、私はききいれませんでした。もしも和平が罪ならば、いさぎよくその罪に服する覚悟を抱いているからであります。
一、 密使により、一時中国からはなれている方が、戦後における蒋氏の治安処理上、万事好都合だというので、8月25日に決心して26日に出発しました。
一、 ソ連の侵入により、不安は増大し、内乱が激しくなることは残念ですが、日本と中国との国交は楽観しております。
一、 小生は日本にあっても、できるだけ身をかくして情報をとり、静観の後、対策を講じたいと思いますので、できれば秘かにお目にかかって御意見を承りたい。
一、 近衛声明と汪先生の友誼に対して和平運動に参加せるも、和平が不可で、その処断のために帰国を命ぜられるならば、いつでも出頭して処断をうけ、貴国に対して御迷惑をかけたくないつもりです。しかし蒋氏自身も、かつては交戦も国のため、和平もまた国のためといったこともあるから心配はないと思います。
一、 軍隊の件、精兵ではないが、約30万ありました。これは直ちに蒋軍に従うよう命令しました。
一、 今後の日華親善は、必ず好転するものと確信する故に、どうか御指導を賜わりたい。
一、 米国が蒋氏を扶けて共産党を抑えることは確実です。
一、 日本が不利の場合でも、蒋氏の日本に対する理解は変化がないと信じます。
一、 中国に関しても、蒋氏一人では到底今後の難局は背負いきれない故に、何としても日本との提携を第一要件とするものと確信します。
一、 ソ連と重慶との修交条約は表面だけで、あれは全く嘘です。
一、 蒋氏が早く治安を統一して共産党を抑え、連合国にどれだけ強力に主張できるかは問題であるけれど、この際、自分が雲隠れしている方が、万事に都合よく、間接ながら蒋氏とも連絡の上のことですから、どうか御安心下さい。特にこのことを重ねて申し上げておきます。
一、 最後に宮中(きゅうちゅう)御礼言上(おんれいごんじょう)の手続きなどお教え願えれば幸甚に存じます。

 塚本は、この口述を紙片に書きとって、何べんも読みかえしてみた。頭にたたみこんで上京しようと思ったが、それには少し長すぎるし、第一間違って伝えたら、それこそ大変だと思った。
 そのとき彼は近衛家へお土産の羊羹をまだつくっていないことに気がついた。彼はもと鶴井といって、牛乳屋の次男だが、後に塚本家へ養子に行った。養家が砂糖問屋だったので、菓子をつくることは得意だし、それにまだ砂糖のストックもあり、いつも上京するごとに、文麿の大好きな羊羹をつくって持参していた。こんどは、陳一行の隠れ家の調達やら、出迎えやらに気をとられてつい失念していたのである。その羊羹の中へ、この伝言を託した紙片を封じこんで持って行けば、万一途中でどういうことが起っても、まず大丈夫だと思った。そこでさっそく妻女を督励して、その晩は夜あかしで羊羹をつくり、その翌くる朝の急行で上京した。
 近衛は、塚本の報告をきいてその労を多としたが、いつもの癖で、口に出しては何もいわなかった。ところで、陳公博への返事には、彼も困った。皇室の存続やら天皇の地位そのものが、微妙な条件下におかれている現在、この〝傀儡(かいらい)政府〟の代表者に拝謁(はいえつ)の機会をつくってやるなどということは、もってのほかだった。近衛自身にしても、東亜の新しい事態に対しては、はっきりした意見は何一ついえない立場にあった。
 そこで、まる三日考えた末、やっとつぎのような返書をしたためて、塚本にもって帰らせた。くわしいことは近くお目にかかった上で、直接申し上げたいと伝言させた。

 拝啓 愈々(いよいよ)御清安奉賀(ほうが)候大東亜戦争も誠に遺憾なる結果と相成候へ共今日となりては過去の事を申すも(せん)なし只将来に向つて中日両国の親善と東亜の興隆を希ふのみ(さて)今回御来朝(ごらいちょう)につきては何の御世話も出来ず汗顔(かんがん)の至りに御座候何も不自由なる時代につき御諒恕賜り度小生来月匆々入洛(そうそうじゅらく)可致其節拝眉(はいび)を得度楽居(らっきょ)候御自愛専一の程是
祈候敬具 文麿
 陳 先 生 侍史(じし)

 それから約半月ばかり、陳公博夫妻は塚本の家でくらした。
 このあたりは、修学院離宮を訪れるジープの群で、いつになく賑わった。村の子供たちは、ジープの通るごとに、歓声をあげた。
 有名な富豪の別荘として建てられた近所の豪壮な洋風住宅は、進駐軍に接収されて、ペンキ塗りの札が門前に立てられた。英語だか日本語だかわからない言葉が村童の間にもひろがった。京都から自転車で買い出しにくる青年の口から、「ケンタッキー・ホーム」のメロディが、清流で葱を洗っている村人の耳にも流れて行った。
 塚本は慣れない百姓仕事を了えて家に帰ると、晩には奥の客人と雑談の一刻を送るのが、何よりも楽しみになった。そんなときはいつも、〝中山〟が通訳をしたが、陳夫人は塚本の妻女について、熱心に日本語を学んだ。1週間もたつと日常の用はどうにか弁ずるようになった。
 陳のこれまでの身の上話を聞いていると、そのままが中国の革命史であった。彼は恵州の生まれで、小さいときから活版小僧などして苦労した話、16歳で父と共に孫文の国民革命運動に参加して、広東で革命を起したが、失敗して香港に亡命した話、北伐軍では総司令政治訓練部長の要職につき、国民党内に重きをなしていたが、1930年汪兆銘閻錫山馮玉祥らと反蒋運動を起し、翌年汪と蒋の妥協なるや、国民政府実業部長となった。対日問題で汪と蒋の意見がまたも対立し、1935年汪が蒋側の刺客に襲われるや、相共に野に降り、1938年末、汪がハノイで第一次和平通電を発すると、これを懐中にして香港に乗りこみ、その後ずっと形影相添う(けいえいあいそう)如く汪と生死を共にして今日にいたったという。この多難な人生行路も、彼自身の口からきくと、まるで講談本でもよむように面白おかしく、時のたつのを忘れるのであった。〝革命家〟ではあるが、決して軍閥型ではなく、理想家肌の文化人という印象をうけた。身を持すること極めて厳で、生活態度は端麗そのものであった。朝もいたって早起きで、しかも毎日起床の時刻に殆んど狂いがなかった。
 夫人の方は、前に広東の女高師(じょこうし)を出た頃、日本視察にきたこともあるが、こんど日本婦人の献身的な生き方に深い感銘を覚え、自分も幸いにして許されて中国に帰ることができたならば、上海に残してきた86歳の老母や、16歳になる息子と共に「家庭に生きたい」と口癖のようにいった。
 この人たちは、一歩も外へは出なかったけれど、追々世間の口がうるさくなってきたので、金閣寺住職村上慈海師にたのんで、その方へ居を移し、食事は毎日塚本の方から運んだ。その間、あわただしく変貌していく世間をよそに、かれらは好きな読書に朝夕を送った。

 塚本は、夫婦協力して、命がけでこの大任を果してきたという満足に浸りながら、昼間の疲れが出たせいか、車の中でついうとうとしていたが、近づいてくる足音にふと眼をさました。バックのガラス越しに外を見ると、すぐ近くに、薄闇の中に突っ立っている黒い人影が眼についた。彼は車の外に出た。
 相手もこちらへ近づこうとしてためらっている様子だった。傍へよって顔をのぞきこむと、それは〝中山〟だった。相手が塚本だとわかると、ほっとしたといったような表情を見せて、塚本の手をとった。彼は陳への重大ニュースをもたらしてここへきたのだが、入口に車がとまっているので、一時様子をうかがっていたのだといった。
 その重大ニュースというのは、蒋介石からの帰国命令だった。
〝中山〟が門内に消えると、まもなく近衛が出てきた。塚本は扉をあけて彼を車に乗せ、自分も助手席に乗った。
「大市へ」と、近衛は運転手に命じた。今夕彼は、すっぽん料理に、三好京都府知事から招待されているのであった。
「いよいよきたそうですね。」
と、塚本はいった。
 近衛はだまってうなずいた。
「出発はいつですか?」
「今夜だ、米子にはもう迎えの飛行機がきている。」
 塚本はひとごとながら面くらって、気持の整理がつかぬ形だった。
「またご苦労だが、ひとつ頼むよ。」
「あの人たち、オーバーがいるでしょう。飛行機の上は寒いでしょうからね。」
 これから1時間の間に、オーバー4着と弁当を手に入れる方法について、塚本は頭をはたらかせた。

第1章 生と死

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