第6章 九寸五分

 東京の郊外でも、荻外荘のあるあたりは、第一次世界大戦で、漁夫の利を占めて、日本の資本主義経済が急激に膨張したときに、武蔵野の一角をきりひらいてできた高級住宅地である
 いずれも、昔のままの老樹をとりいれた敷地に、生垣や石塀がめぐらされ、和洋とりどりの豪壮な〝お屋敷〟が建っている。しかしそれらにも、激しい時代の嵐の跡がはっきり現われている。何年も鋏が入らなくて伸びほうだいになっている庭樹、かつては手入れの行きとどいた垣根にからみついているかぼちゃの枯れた蔓、漆喰壁が落ちて腐った内臓がはみ出ているような洋館、蝶番(ちょうつがい)のはずれている門扉、破れた板塀の間から見える芝生を掘りかえした菜園、土管が破れて白いとぎ水の噴き出ている勝手口、それに、特別に広くとった道路の両方の縁も、大きな玉砂利を掘り出して、菜園になっている。
 これらはすべて、そこに住んでいる人々の経済的な地すべりや陥没を物語っている。家だけは残っているが、持株も、銀行通帳も、箪笥(たんす)の中さえも、空になっていることを、道行く人々に告白しているようなものだ。
 その中でも、荻外荘は、特に広くて、豪然たる構えである。門を入ると、古い赤松に混って大きな落葉松が、地上すれすれにまで枝をひろげている。
 玄関に、「荻外荘 西園寺公望 九十」と彫りこんだ扁額のかかっているこの建物は、伊東忠太博士が、医学界の長老入沢達吉博士のために、和洋建築の粋をあつめて設計したもので、後に近衛家が譲りうけて、移ってきたのである。
 かつては、四六時中、三、四〇名の警官隊によって物々しく護衛されていたものだが、近頃は祭礼が終った後のお宮の境内のようなわびしさをたたえている。しかし、ここ数日来、また車や人の出入りが激しくなった。
 主人の巣鴨に出頭する日がせまってきたからであろう。
 12月14日の朝である。16日までは、今日と明日と二日しかない。
 主人は、昨夜おそくまで、書類や手紙の整理をしていたので、起きてくるのはおそかった。縁側に立つと、右手の空に、すでに雪を頂いた富士が、いつもより際立って美しく見える。


  そびゆる富士の姿こそ
  金甌無欠(きんおうむけつ)ゆるぎなき
  わが日本の誇りなれ


 ふと、「愛国行進曲」の一節が、遙か遠い昔、彼がまだランドセルを背負って、学習院に通っていた頃にうたった歌ででもあるかのように、彼の頭に浮かんできた。
 寝巻のまま、彼は、ぶらりと庭に出た。
 庭は、南向きの緩いスロープになっている。それを蔽っている広い芝生は、すでに幾度か霜をうけて狐色に変わっているが、下の方の一部は、掘りかえされて菜園になっている。この千代子夫人の丹精の跡には、今はただ骨ばかりになった茄子の木が五、六本と、わずかな葉が青さをとどめて地面にへばりついている大根の株が、二つ三つ目につくだけだ。
 南の端の垣根に接して、小さな池がある。その近くに青銅でつくった鶴が二、三羽、それぞれの姿勢で、立っている。
 南西の隅には、あずま屋があり、その前は藤棚になっている。そのあたりは、しばらく手入れをしないと見えて、かなり荒れている。
 庭のところどころに、陶器の腰掛が配置されている。支那焼特有の黄と青のあざやかな色がやわらかな朝の光をあびて、目がさめるように美しい。
 彼はあずま屋の傍にあるその腰掛の一つに腰をおろし、ふところから書類の束をとり出して、それに火をつけた。その中には、秘密のままに葬り去らねばならぬ政治的記録もあれば、妻子にも見せたくない私的な音信もあった。
 まったく無風なので、煙はまっすぐに立った。小さな赤い焔から、しゃがんでいる彼の頰に伝わるほのかな温みは、ほろ苦い快感を覚えた。
 燃えつきてしまうと、灰白色の薄片の小さな山が、あとに残った。
 そのとき、次男の通隆が、彼のうしろに立っているのに気がついた。
「お父さま、ご飯ですよ。」と、彼はいった。
 二人は、肩をならべて、庭を歩いた。肉親の愛情というものが、それまでは想像もできなかったくらいに強く、生理的な圧力をもってひしひしとせまってきた。
 通隆も、彼に似て背が高い。長男の文隆は、丸顔で、からだもよく太って、母似だが、通隆は彼そっくりで、三十年前の彼自身をまのあたり見るような気がした。
 朝飯はいつもの通り、パンとコーヒーと果物で、軽くすませた。
 何を思ったか、彼は、廊下の壁にからだを押しつけて、丁度自分の背の高さのところに、爪で印をつけた。物差(ものさし)をもってきて、下から計ってみると、正確に五尺九寸五分あった。
 通隆を呼んで、同じところに立たせてみると、彼よりも心もち低い。
 それから彼は、床の間の違棚(ちがいだな)の奥にしまいこんであった陶器の観音像を持ち出してきた。それを卓上にのせて、高さを計ってみると、丁度九寸五分あった。彼はそれをもって、ふたたび庭に出た。
 彼は前から、この「九寸五分(くすんごぶ)」ということに、妙にこだわっている。それは大学を出て、徴兵検査をうけたときだった。係官が彼の身長をいうときに「九寸五分」に力瘤(ちからこぶ)を入れて、声をはりあげていった。そこにいた人々は、どっと笑った。他の受検者に比して、ずばぬけて高かったからであろう。しかし彼には、そのときの「九寸五分」という言葉が、いつまでも耳に残っていた。
 その後、政界に乗り出すようになって、政治家というものは、政敵の手にかかって死ぬのは本望だと周囲のものに、よくいったものだ。それでも、この「九寸五分」という短刀を意味する言葉は、彼の不吉な運命を予言しているようで、気持がよくなかった。人から、日本人としては高すぎる彼の身長をきかれる毎に、彼は五分をきりすてて、いつも「五尺九寸」と答えることにしていた。
 この観音像も、もらったときに、「九寸五分」ときいて、見るのも嫌になった。
 それは確か昭和13年の春で、彼は第1次近衛内閣の首班であった。「支那事変」は、北支から中支へと拡大しつつあった。その頃中国臨時政府行政委員長だった王克敏が、日本にやってきて、そのお土産に、宋代の有名な書家趙孟頫の筆になる「仇氏墓誌(きゅうしぼし)」と共に、康煕(こうき)時代のものだというこの観音像を彼に贈ったのである。
 しかし、彼には、「墓誌」といい、「九寸五分の像」といい、いい気持がしなかった。いずれも、「清朝帝室の秘宝で、支那古美術愛好家の垂涎おくあたわざるもの」と、当時新聞は書き立てたけれど、或は北京の骨董屋の隅っこで埃をあびていた模造品だか何だかわかりゃしない、と彼は思った。
 それに、第一、王克敏という男自体が、彼は虫が好かなかった。いつも黒眼鏡をかけたこの男の風貌は、何となく不吉な感じを与えた。この象牙色をした観音像の感触が、王自身の両棲動物のような、ぬらぬらした肌にさわるようで、悪感を覚えるほど嫌だった。
 彼はそれをもって、あずま屋のところへ行って、そこの踏石の上に、力いっぱい投げつけた。

 午後になると、荻外荘は、種々な訪問客で賑わった。
 外務省の終戦連絡事務局から役人がきて、明後日巣鴨に出頭する場合の打合せを行った。前に宮様や元の大臣、大将が自分で蒲団袋や大きな鞄をさげて入って行く姿が新聞に出て、世間の話題になった。彼には、そんな目にあわせないように、車の手配ができているし、蒲団のもちこみは一人一枚に限られているが、二枚分の綿を一枚の皮に縫い込む手もあると、役人はいった。
 彼は、黙ってきいているだけで、何にもいわなかった。
 ついで、東大の柿沼博士が彼の健康診断にきてくれた。その結果では、持病の痔疾は全治しているし、かつて患った肋膜炎も、痕跡をとどめている程度である。ただし全体的にからだが少し弱っているようだから、十日や半月の延期を申請する程度の診断書は書けると、博士はいった。
 彼は、それを書いてほしいともいわなかった。
 入れ代り立ち代りやってくる暇乞いの客で、応接室はずっと満員だった。彼が会いたがらないので、夫人はその応対に忙しかった。
 玄関に燈が入った頃、後藤隆之助夫人が息子をつれて後藤の手紙をもって、訪ねてきた。
 それには、


 訣別の意味を以て両名を差遣します。玄関にても御引見
 願えれば幸甚に存じます。


とあった。それを見た近衛の表情が一瞬、さっと変わったのを後藤夫人は見逃さなかった。しかし、彼女は、それが何に因るものか、わからなかった。
 後藤にしてみれば、単純な暇乞いのつもりで、古くから近衛に馴染んでいる二人を遣わしたのであった。だが、その前日、丸の内の彼の事務所で近衛に会ったとき、近衛は巣鴨へ出頭する意志のないことをほのめかした。それが後藤の意識の底にあったので、自然とこういう表現になったのであろう。
 その晩、近衛が着換えをした後で、千代子夫人は、この手紙を発見した。そして後藤にだけ良人が〝秘密〟を打明けたものと思いこんで、夫人自身も腹をきめた。
 翌15日になると、荻外荘は、久しぶりで、主人が組閣の大命を拝したときや、新党運動に乗り出してきたときに比して、勝るとも劣らぬ混雑を呈した。しかしそれは、葬式以上に深い憂愁の影を宿していた。
 いつもより早く床をはなれた近衛は、塚本を呼んで、二十分ばかりも二人きりで懇談した。
 塚本は、ひとりで、すぐに外に出かけて行った。
 午後になると、最近欧州からアメリカ経由で帰ってきたばかりの近衛秀磨子爵(彼の弟)を初め、大山柏公爵夫妻(武子夫人は彼の妹)、水谷川忠麿男爵夫妻(忠麿は彼の実弟)、島津忠秀公爵夫妻(昭子夫人は彼の長女)、その他の親戚が続々つめかけてきた。
 側近の富田健治、牛場友彦、細川護貞などは、たいてい前日から泊りこんでいた。
 さらに一高時代からの旧友山本有三、後藤隆之助、政治家では金光庸夫、内田信也、ジャーナリストの松本重治などで、さすがに広い荻外荘も、各部屋は人であふれていた。
 近衛は、午前中、私室にとじこもって、物思いに沈んでいる様子だった。それが急にがらりと変わって、見違えるように、明かるく、朗らかになった。もしやと思っていた人々も、それでほっとした。しかし、明日の出頭準備に関しては、彼の態度は極めて冷やかで、それを口にすることさえ避けているように見えた。
 そこで、彼は果して出頭する気かどうかということについて、人々は、ひそひそと、しかし真剣に語りあった。中でも夫人は、後藤に、
「あなたは、ほんとうのことを御存じなんでしょう。」
と、つめよった。後藤は、返答に困った。
 夕飯後、後藤は山本を誘って、近衛の居間へ入って行った。近衛はいなかった。二人は、座りこんで、待っていた。
 それは、庭の方につき出た十二畳の部屋で、正面にガラスばりの書棚、左手に床の間と書類棚、右手に違棚、その上に小さな置時計がのっている。書棚には、革の背表紙に金文字の入った憲法に関する書物がぎっしりつまっている。天井は、茶室風に凝ったものである。
 やがて、近衛が一人で入ってきた。
 しばらく、沈黙がつづいた。
「明日、出頭する気かね。」
と、後藤はきり出した。
 近衛は、黙っている。
「僕の第一の希望はだね。」と、後藤はつづけた。「法廷に立って、フランスのペタン元帥がやったように、堂々の所信をのべて、それで悪いというんなら、いさぎよく裁きに服してもらうことだ。」
「僕は思うに、僕の責任は、」と、近衛は初めて口をきった。「主として、支那事変にあるのだ。そしてそれは帰するところ、統帥権(とうすいけん)の問題になると思う。だが、それを追求して行くと、累を陛下におよぼす恐れがある……」
「では、君は、やる気か?」
と、気の短い後藤は、ずばりときりこんだ。
「………」
「それもよかろう。しかし、東條のようなぶざまな真似はしてくれるなよ。」
「それにしても、」と、山本も乗り出してきた。「何かまとまったものを書き残しておいてもらいたいね。」
「それは、もうできている。」
「君も知ってるように、中野正剛という男は、」と、後藤はいった。「平素は侃々諤々(かんかんがくがく)の論をなす男だったが、死に臨んで残して行った言葉は、実に弱い、たあいのないもんだった。君も……」
 気がつくと、夫人と通隆とが、その部屋に入って、聞いていた。
 後藤も山本も、骨肉を前において、これ以上言葉をつづける勇気もなかった。
「この話は、もうこれで、うちきろう。今夜は、この通り大勢きているんだから、みんなにも会ったらどうか。」
という後藤の言葉にうながされて、一同その部屋を出た。
 出がけに山本は、通隆を傍へ呼んでいった。
「今夜は、ゆっくりと、お父さまから話をうかがっておいたがいいよ。」

 応接室に現われた近衛は、別人のように朗らかだった。新円問題、農地改革問題、買出しとヤミ値、進駐軍の家屋接収から、パンパンの噂にいたるまで、話題はそれからそれと、つきなかった。
 その間、近衛は、まるで明日の出頭を忘れている人の如く、一座の人々に印象された。
 やがて、泊りこみでない人々は、電車がなくなるので帰り支度をはじめた。
 外から帰ってきた塚本が、ちらと顔を見せてすぐ引っこんだ。
 近衛は、一同に別れの挨拶をして、居間へ退いた。そしてすぐ湯加減をきいて、入浴の支度をしながら、塚本にいった。
「義、久しぶりで、背中を流してくれよ。」
 近衛が浴室に入ると、塚本もパンツと腹巻だけになって、その後へつづいた。
 近衛は、浴槽の中で、いった。
「熊さんの容態は、どうだった?」
「あまりおよろしくないようです。」
「熊さんも気の毒だね。」
(学習院時代から、近衛ともっとも親しかった西園寺公秘書原田熊雄男爵は、近衛の死後、丁度七十五日目に亡くなった)
 ついで、近衛は少し声を落して、きいた。
「それから、あっちの方は?」
「今朝がた仰せつかった用件は、残らず、かたづけてまいりました。」
 そういって彼は、腹巻の中から、1通の手紙をとり出して、両手で、弁慶の勧進帳のように、ただし中味は近衛の方に向けて、ひろげてみせた。
 近衛は、浴槽から首だけ出して、湯煙の中の、やわらかい、液体のような光で、それを黙読してうなずいた。
 1通がすむと、塚本は、それを腹巻におさめて、また別なのをとり出して、前と同じようにひろげた。
「………………」
 ――自分は今、罪の自覚なくして、自分の手で自らの生命を絶とうとしている。これも人の世の掟なら、同じ血につながりながら、今日の訣別に列することの できないものがいるのも、人の世の掟である、と近衛はしみじみ考えた。
涙が彼の頰につたわった。それは、彼が死を決意して以来、初めての涙であった。
「………………」
 その時刻に、高いのと低いのと、二つの黒い影が荻外荘の門から外へ出て行った。
 門の内外の空を蔽っている大きな松の木の下をすぎれば、月が出ていることがわかった。大通りに出ると、昼のように明かるい。
「君んとこは、まだ電車があるかい?」
と、大きな方がいった。山本有三である。
「あやしいね。もっとも、近頃夜出歩くことは滅多にないので、終電は何時だか知らないが。」
と、小さい方が答えた。後藤隆之助である。
「じゃ、今夜は僕の家で泊って行かないか。」
「そう願うかな。どうせ今夜は、ゆっくり寝ちゃおれまい。何どきたたき起されて、またここへ来なくちゃならんかも知れんからね。」
「そうだよ、三鷹からなら、歩いて来ても大したことはない。」
 それから二人は、黙々と歩いた。
 ――三十年来の友人がいま、自らの手で生命を絶とうとしている。それがわかっていながらどうすることもできないのである。しかし考えてみれば、支那事変以来、何百万という生命が一片の赤紙と引換えに失われて行ったのだ。その中には、爆弾を抱いて、敵にぶつかって行った若者も少なくない。彼自身の真の意図はどうであろうと、久しく最高の責任者としての地位にあった彼が……いや、ひとのことだから、そんなことがいえるのだ。もしもいま、自分が死なねばならぬとしたら……。
 ――二つの頭が、別々に同じ想念を追っていた。しかし、明かるい月の光が、ともすれば、きびしい現実から、かれらを引きはなした。二人は花道から舞台に向って進んでいるような気がした。
 恐ろしい〝期待〟が、悪感のように背筋を走った。二人は月の光で顔を見合せた。言葉はなかった。

 その同じ時刻に、風呂から出た文麿は、火鉢を挟んで、通隆と向い合っていた。傍にはすでに寝床がのべられていた。
 沈黙がつづいた。
「通隆」と、文麿はいった。いつもは人にものをいうとき、相手の顔をまともに見ることの滅多にない彼だが、今は息子の顔をじっとみつめた。「文隆はソ連へつれて行かれて、どうなるかわからんのだから、最悪の場合は、お前が家をつぐんだぞ。」
 通隆は、少し伏し眼に、うなずいた。
「大学の方はどうだ、興味があるかい? ずっと国史で通すつもりかい?」
「ええ、僕は政治は嫌いです。」
「僕も歴史は好きだった。あのまま、文科の方をつづけて、学者にでもなってればよかったんだが、それがいつのまにか政治に深入りした。気がついたときはもう、逃げ出せなくなっていた。……」
「…………」
「世間では、僕のことをいろいろいっているが、日支事変の解決や、日米交渉成立には、自分としては全力をつくしたつもりだ。特に国体護持に関しては、あらんかぎりの努力をした。それは国民として、別して近衛家としては当然そうあらねばならんのだが、くわしいことはあの『覚え書』の中に書いてあるからあれを見ればわかる。といって、陛下や全国民に対する自分の責任は十分感じている……」
「しかし、お父さまは……明日、巣鴨へ行って下さるでしょうね。」
 こういって彼は初めて父の顔をまともに見た。そこには、何ともいえぬ暗い、忌わしいといった表情が浮かんだ。それが返答であった。
 二人の間に、またも沈黙がつづいた。
「僕のこの気持は、イギリス人にはわかるかもしれんが、アメリカ人にはわかるまい。貴族をもたぬアメリカ人には……」
 そのとき彼はふと思い出したように、何か書くものをもってきてくれといった。通隆が自分の部屋から、便箋と鉛筆をもってくるとその上に彼は、すでに前からちゃんと頭の中に用意されていたことでも記すように、すらすらと鉛筆を走らせた。
「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於いて裁判を受けることは、堪え難いことである。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、この事変解決を最大の使命とした。そしてこの解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から今犯罪人として指命を受けることは誠に残念に思う。
 しかし僕の志は知る人ぞ知る。殊に米国に於いても多少の知己が存することを確信する。戦争に伴う昂奮と、激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と、敗れた者の過度の卑屈と、故意の中傷と、誤解に基づく流言蜚語と、是等一切の所謂輿論なるものも、いつかは冷静に取り戻し、正常に復する時も来よう。
 其の時初めて神の法廷に於いて正義の判断が下されよう。」
 書き了えると彼は、
「これが、僕の今の心境だよ。」
 といって、通隆に示した。
 通隆は、それに眼を通したが、こみあげてくる激情が全身をゆすぶって、眼から頭への連絡が遮断されてしまった。
 その間に、ずいぶん長い時間がたったような気がした。永遠につづいている時の流れに、人間がつくった「日」という小さな区ぎりは、1945年12月15日をすぎて、16日に入っていた。
「もう1時すぎだよ。」
 と文麿はいった。
「さあ、寝たがいいよ。僕もつかれた。」
 それから彼は、千代子夫人を呼んだ。
「喉がかわいたから、コップに水をいっぱいくれ。」
「大きいコップにしましょうか、それとも……」
「小さいのでいい。」
 夫人は、すでに覚悟ができているのか、こだわりのないその性格からか、或は平民社会では見られない特殊な夫婦関係からか、この場合に臨んでも、少しも取り乱した様子が見られなかった。
 文麿は、水がくると、半分飲んで、半分残して、寝床に入った。
 通隆も、隣りの部屋に退いて、寝床に入った。一つの壁を隔てて、親と子が、死と生の格闘をつづけて行った。
 文麿は、生と訣別するに臨んで、自分の生涯から、一つの意義、一つの結論を導き出そうと試みた。
 ――自分は、皇室を除いては、最高といっていい家に生をうけて、三度も首相の地位についた。特に新党運動に乗り出したときは、全日本民衆の圧倒的な支持をうけた。一人の人間が、上下例外なしに、全民族の支持をうける。こんなことがかつて日本史上に、否、世界史上にだってあったであろうか。その点で自分は、もっとも恵まれた、もっとも栄誉ある、もっとも充実した生涯を送ったものだともいえないことはない。
 ――だが、よく考えると、自分の意志に反して、虚位を擁しつづけてきた自分は、一種の天一坊だったとも見られよう。自分を天一坊たらしめたものは、軍部であり、時代であって、自分には罪がないかもしれぬ。しかし、この際罪の自覚の有無などは問題ではない。今日、裁きの庭に立たねばならなくなったのも、当然であるといえよう。
 ――かつての自分は、自分の〝家〟や〝血〟に対する疑い、これらすべての根幹となっている皇室というものに対する疑い、いや、疑いよりはむしろ否定によって、人生のスタートをきった。それが、いつのまにか、この旧い制度、いや、迷信の支柱となり、それによって支えられた特権の上に生きていた。そして今、「国体護持」に全力をつくしたという誇りと満足に浸っているが、これまた、自殺に必要な跳躍台にすぎないのではあるまいか。そういう心の拠りどころがないと、安心して死んで行けないのだ。
 ――これまで自分の周囲には、数えきれないほど多くの人間が集まってきた。かれらは親友、知己、側近、ブレーンその他いろいろの名で呼ばれた。だがその中で、自分の方からほんとうに心を許したものが幾人あったろうか。血で血を洗う宮廷生活の遺伝が、庶民の間に見るような温かい人間性を剥奪し、心の扉を錆びつかせてしまったのではなかろうか。
 ――女に関しても同じことがいえる。自分はこれまで幾人かの女と交渉があった。もちろんその大部分は、自分の地位や名声に慕いよってきたものではあるが、しかしその中には、少なくとも或る期間、ほんとに自分を愛してくれたものもあった。現に今も自分の心のどこかに、懐かしい思い出となって生きているものもある。だが、その純情に対して、自分はいかに酬いたであろうか。


 忘られぬ人々十の指に満つ
 そののちの子はいかに数えむ


 昔読んだ吉井勇のこんな歌がふと頭に浮かんだ。同じ貴族出身でも吉井は、自分とは反対に異端者としての生活コースを貫き通した男である。だが、彼にもやはり、自分と同じ悩みがあるのではなかろうか。

 一時間の時が、まるで十分位にしか思えない早さで、過ぎて行った。
 遠くで、犬のなく声が聞える。それが長く尾を引いて、冬の夜よく軽井沢で聞いた狼の声のようである。
 夜が明けるのに、もう間があるまい。
 彼はそっと起き上って、本棚の憲法の本のうしろにしまっておいた茶色の小さな瓶をとり出した。その中味を一気に飲んだ。
 かくて豪華絢爛を極めた彼の生涯に、拍子木の音もなく、目に見えぬ緞帳(どんちょう)がしずかに降りた。

 夜が明けると、荻外荘は、昨日以上の混雑を呈した。門の外に長くつづいている自動車の列の中には、ジープが幾台も混っていた。門には、MPが歩哨に立った。
 奥の南に突き出た十二畳の間には、白装束の遺骸が、金屏風を背景に、純白の夜具の中に、北向きに横たわっている。幾分青味をおびた白皙(はくせき)の顔は、心もち口を開き、ぐっと顎をひいて少しも苦悩の跡が見えない。秀麗な眉も、短かく刈りこんだ口髭も、黒々として、白髪一本なく、五十五歳とは思えない。
 写真班のフラッシュが、蠟細工のような死者の面を照らして、遺族や弔問の人々の頭に、華かなりし日の彼の面影を、まるで映画のフラッシュ・バックのように、つぎつぎに想い起させるのであった。
 今ここに、むくろとなって横たわっているのは「近衛文麿」という一人の日本人ではない。この民族を支えていた(或はそう思われていた)大きな目に見えない柱が、彼と共にどっと倒れてしまったのである。
 やがて、隣りの部屋で、新しい未亡人を中心に、故人の特に親しい友人たちが集まった。
「こういうことになるということは、前々から考えないわけでもございませんでしたので……」
 と、未亡人は、案外冷静であった。
「ところで、文隆君の方は、」と、客の一人がいった。「その後何か新しい消息はありませんか。」
「終戦後、ソ連につれて行かれる前に、ハルピンであの子に会ったという方があるだけでございます。その方のお話では、大変元気だったそうですし、それに元々からだは至って丈夫ですから、命の方はまず安心だと思いますが……」
「ソ連では、なかなか帰さんでしょう。」
「それでございますよ。そのうちに帰って参りましたとしても、赤くなってでもおりましたらと、それが心配で……」
 一同は黙って互に顔を見合せた。かれらの頭には、期せずして、
「近衛公の御曹司、赤の闘士となって帰る」
という新聞の初号活字が浮かんだ。そして誰一人としてその可能性を否定することができなかった。
 ――かくて波瀾に満ちた日本史の一章はその主役の生命と共に終った。
 つぎの新しい章には、果して何が書かれているか、それは開いてみないとわからない。
 しかしその前に、今終った旧い章――世界史上にかつてない一民族の大きな膨張と転落を記したこの章を、もう一度丹念に読みかえしてみる必要がなかろうか。

第5章 道化役者

青春編 第1章 叛逆の系譜

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