今から100年前の1912年、処女航海に出たタイタニック号が大西洋で沈没し、ストックホルムで開かれた第5回オリンピックに日本が初めて参加したその年、日本では明治が終わり、大正が始まった。
7月30日崩御の明治天皇ご大喪の9月13日、日露戦争の旅順攻略で知られる陸軍大将・乃木希典(1849年生)は静子夫人と共に自刃。当初、軍部によって情報の隠匿が謀られたが、「第一自分此の度御跡を追ひ奉り自殺候処恐入候儀其罪は不軽存候、…」に始まる遺書が公開されたことで「乃木将軍殉死」の報が日本中を駈け回り、様々な反響を巻き起こした。大宅壮一は1963(昭和38)年よりサンケイ新聞で連載を始めた「炎は流れる」で次のように書いている。「封建制度がほろびて、半世紀もたったとき、乃木希典という世界的に知られた将軍によって、夫妻ともに刃に伏するという世界史上にも類のない殉死がなされたのだから、劇的効果は満点であった。これによって、明治とともに失われたと思われていた古い美しい日本が、日本人の心のなかにまだ生きていることが立証されたと思う人もあれば、歴史は逆回転を始めたと見る人もあったのだ。」
わが国最初の雑誌とされる『西洋雑誌』は明治前年である1867(慶応3)年に創刊された。CD-ROM「大宅壮一文庫創刊号コレクション」の明治編には149誌の創刊号が収録されている。当時すでに雑誌は確立されたメディアであった。ちなみに「創刊号コレクション」には明治45年の『武侠世界』『軍事画報』『有名無名』、大正元年の『婦人評論』『近代思想』『南方の花』『新文林』を収録している。
大宅壮一文庫「雑誌記事索引」の人名項目「乃木希典」を検索すると、乃木大将談「名士壮談 鉄拳でグニャリとなる様では駄目だ」(『冒険世界』1909年2月)という青年時代の教育を語った記事もあるが、殉死直後の記事を拾うと、大隈重信「乃木大将の殉死を論ず」(『新日本』1912年10月)、島村抱月「自殺と乃木大将夫妻」(『婦人評論』1912年10月1日)、『中央公論』1912年10月号では東條英教・新渡戸稲造や慶應義塾塾長の鎌田榮吉らによる「乃木大将の殉死を評す」という特集が組まれている。この号には9月18日に青山斎場でおこなわれた将軍夫妻の葬儀に参列してかえったその晩に一気に書き上げた森鴎外の「興津弥五右衛門の遺書」も掲載されている。
「当時の日本の新聞が…将軍の死が発表された直後には、近代的・自由主義的な立場からの否定的な批判も相当あったのであるが、日がたつにつれて、肯定的・礼賛的意見が強くなり、まもなく無条件的讃嘆一色でぬりつぶされてしまった」(「炎は流れる」)将軍の死にだれよりも痛烈な批判を下した文学博士谷本富に対し「連日何百通という脅迫状がまいこみ」、当時京都帝国大学教授の地位にあった谷本は、このためにその地位を退かねばならなかった。「乃木夫妻の殉死の動機やその是非善悪が、各方面で問題にされ、議論の対象となるにつれて、批判の批判もあらわれて、さらに世人の関心を呼び起こした。」(「炎は流れる」)
そのなかできわめて異色なものが『日本及日本人』1912年12月1日号に“角屋蝙蝠"の名で掲載された「自殺に就き」と題する論文である。著者は日本の学会が生んだ巨人、南方熊楠。古今東西にわたる自殺の実例や解釈を並べた内容だが、前出の谷本博士を「死せる乃木大将をけなして生きたる東郷大将を揚ぐるなど、吾輩庸人にはできぬ芸当なり」とののしり、いかなる理由があれ自殺を奨励すべきでないとした法学博士浮田和民については「博士は近年避妊術の必要をとかるるとか、避妊術はキリスト教義に背かざるにや」と、キリスト教では自殺と避妊を禁じているのに産児制限を唱えたキリスト教系学者の痛いところをついている。
大宅壮一は乃木将軍の殉死から遡ること12年前の1900(明治33)年9月13日に、この世に生を受けている(蛇足だが遡ること200年前、1812年の9月14日にはナポレオン1世がモスクワに入城した)。「炎は流れる」の中で「年号が明治から大正に変わったとき、田舎の小学生だったわたくしは、とくに強く記憶に残るような感銘はなに一つ受けていない。大きな黒ワクのついた新聞が来たこと、家々に「諒闇」と書いた提灯がつられたこと、着物に喪章をつけて学校の遙拝式に出たことをうすぼんやりと覚えているにすぎない」と回想している。
ここでは、大宅壮一文庫の雑誌記事索引の人名項目「乃木希典」279件(2012年8月調査)から主要なデータの紹介と、人名項目がある乃木大将と同時代の軍人の索引件数一覧を紹介した。“雑誌は時代の鏡"、是非来館されて100年前の時代の空気にふれていただきたい。
(敬称略)
大宅壮一雑誌記事索引 人名項目「乃木希典」より
2012年8月調査
タイトル |
発言者 |
雑誌名 |
発効日 |
学習院長・乃木希典 |
|
日本及日本人 |
1907.2.15 |
思想の系統上より見たる乃木大将 |
井上哲太郎 |
東亞の光 |
1912.10 |
乃木大将の殉死を弔す |
|
冒険世界 |
1912.10 |
乃木大將の殉死を論ず |
浮田和民 |
太陽 |
1912.11.1 |
乃木将軍最后の月 |
押川春浪 |
武侠世界 |
1913.7 |
乃木連隊の連隊旗を奪うの記 |
岩切信夫 |
話 |
1936.1 |
乃木大將夫人の「母の訓」 |
末永勝介 |
文藝春秋 |
1962.4 |
腹を切ること |
司馬遼太郎 |
文藝春秋別冊 |
1967年秋季号 |
乃木将軍を因数分解する |
大宅壮一/福岡徹 |
週刊文春 |
1970.9.21 |
乃木将軍は軍神か愚將か |
福田恆存 |
中央公論臨増歴史と人物 |
1970.12 |
乃木大將夫人「母の訓」批判 |
富岡多恵子 |
文藝春秋デラックス |
1974.9 |
西郷が死んだときどこにいたか |
栗原隆一 |
伝統と現代臨増 |
1977.8 |
乃木希典vs東郷平八郎 2人の“功績"が昭和を破局へ導いた |
小田晋 |
宝石 |
1983.8 |
「謹厳」乃木希典が残していた「放蕩記」 |
奈良本辰也 |
新潮45 |
1985.6 |
指揮官の責任 東條英機と乃木希典 |
山本七平 |
諸君 |
1987.6 |
作家の日記 5回 森鴎外と乃木将軍の死、白樺派のことなど |
松本清張 |
新潮45 |
1989.5 |
遺書今昔物語 明治は逝った わしもいく |
石川九楊 |
芸術新潮 |
2000.12 |
言の葉のしずく 112回 乃木式 |
出久根達郎 |
諸君 |
2004.12 |
日本海海戦と明治人の気概 乃木希典と日露戦争 |
小堀桂一郎 |
正論臨増 |
2004.12.5 |
消える日本語 言葉とともに失われる日本人の魂 武士の情け |
藤原正彦 |
文藝春秋 |
2005.12 |
私が愛する日本 日本人の美学 庭に一本棗の木 |
関川夏央 |
文藝春秋臨増 |
2006.8.15 |
※当館の索引は週刊誌、女性誌、総合月刊誌など約400誌から作成。
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乃木希典と同時代の軍人の索引件数一覧(特別編)
2012年8月調査
人物名 |
件数 |
乃木希典 |
279 |
東郷平八郎 |
152 |
山県有朋 |
146 |
秋山真之 |
87 |
山本権兵衛 |
86 |
児玉源太郎 |
71 |
鈴木貫太郎 |
63 |
秋山好古 |
50 |
広瀬武夫 |
48 |
大山巌 |
45 |
明石元二郎 |
38 |
寺内正毅 |
37 |
西郷従道 |
33 |
川上操六 |
22 |
福島安正 |
19 |
石光真清 |
16 |
樺山資紀 |
14 |
柴五郎 |
14 |
上原勇作 |
12 |
島村速雄 |
11 |