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有名パティシェの逸品ケーキもいいけれど、昔ながらの銘菓を口に含むと、何故か気分が落ち着く。年末年始は好きな飲み物でゆっくり楽しみたい。
◆カステラ 雑誌記事件数 46件(1976年〜)
「カステラ1番、電話は2番、三時のオヤツは○○○」。1962年に始まった文明堂のCMソングは40年間、今も休まず流れている。カステラを贈答菓子ナンバーワンの座に押し上げた功績は大きい。
カステラのルーツは紀元前3世紀のローマ帝国時代からスペインの修道院などで作られていたWビスコーチョWというケーキにさかのぼる。お祝い行事には欠かせない菓子とされていた。今から400年以上前の16世紀後半、長崎にやって来たポルトガルの宣教師や貿易商たちが日本に珍しいお菓子をもたらした。
カステラは1571(元亀2)年、キリスト教や鉄砲とともに伝来され、炭火を使い和泉屋で初めて製造された。長崎の人々は南蛮渡来の菓子をスペインの古い国名、「カスティーリア」というポルトガル語にちなんで「カステラ」と名付けた。その後、珍味は日本人の口に合うように改良されて、長崎から京都、江戸に広まっていった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、時の権力者たちもその味を愛で、千利休の茶席にも供された。1854年に突然、伊豆下田沖にやって来たアメリカの黒船艦隊、ペリー提督一行にもデザートとしてもてなされた。
カステラ屋として名高いのは、古い順に福砂屋、松翁軒、文明堂などがある。1624(寛永元)年、第3代将軍徳川家光の治世に創業、380年の歴史を刻む、福砂屋では16代にわたり、独特な製法でつくり上げている。今もポルトガル人直伝の製法が伝承されている。銅製の鍋に40個分の卵の白身だけを落とし、20分間ホイップしてクリーム状にし、黄身を加えてさらにかき混ぜ、白ザラメ・砂糖・水飴・小麦粉を加えて撹拌する。生地を練りながらザラメが小さくなるまで溶かしてから矩形の木枠に流し込み、窯で8本分を一度に焼き上げる。卵の手割りから撹拌、窯入れまで一人の職人が一貫して仕上げるために、味も一品ごとにすべて異なるようだ。
「カステラの黄なるやはらみ新しき 味ひもよし春の暮れゆく」と北原白秋が詠んだが、庶民には縁遠い高価な菓子で、大正期は初任給の3分の1くらいの値段だったそうだ。戦後、1950(昭和25)年に製造を再開したカステラは目の飛び出るほどの値段で、なんと一斤400円!当時、東京近郊の土地一坪が買える値段だった。近代化によって鶏卵の値段なども下がり、誰でも口にできるお菓子となった。茶色い薄皮を冠した黄金色のふっくらスポンジが新しい年の幸福を呼び込んでくれることだろう。
◆月餅 雑誌記事件数 5件(1991年〜)
伝統的チャイナ・スイートの月餅(げっぺい)は文字通り、昔から月を愛でる菓子とされ、月宮餅とか団円餅とも呼ばれた。中国では明代から中秋の行事に、各地で手作りされ親戚や知人に贈る習わしだった。
満月をかたどった円形で、大きなものは20センチから3センチほどの小さなものまで、中身もゴマ餡や木の実、栗、クルミ、蓮の実、ココナッツ、ドライフルーツ、ハム入りなど多種多様。大きい月餅はケーキのように平等に切り分けて仲良くいただいた。外皮の表面には月にまつわる寓話など、独特の美しい絵柄が彫り込まれている。日本では1927(昭和2)年に新宿中村屋の相馬愛蔵が製造販売してから80年近い定番菓子となっている。
今宵、夜空を仰いで、あたたかい烏龍(ウーロン)茶の香りを楽しみながら、十二楽坊の音楽に包まれて、静かに味わいたい。
◆クッキー 雑誌記事件数 82件(1983年〜)
日本のクッキーの母は泉園子という女性である。父が経営していた泉屋は大阪で貿易商を営んでいた。園子は転地先の和歌山でアメリカ人宣教師夫人からクッキー作りを教わり、1917(大正6)年、アメリカからオーブンを買い入れ、クッキーづくりに励んだ。その後、京都に移り住んだが、自家製クッキーが近所で評判となり、1927(昭和2)年に洋菓子店泉屋をオープンし日本で初めてクッキーを販売した。夫の死後、お店を京都から東京に移転し現在に至る。
ホームメイドのカリッとした軽い風味を創業以来頑固に守っている。四角い金属製ケースの上ぶたに描かれたシンボルマーク、「浮き輪」は18種類のクッキーの一つ、「リングダーツ」の形にヒントを得たもの。困難の中でも沈まないようにみんなで力を合わせる精神を象徴している。パリっとした歯ごたえとあっさりした素朴な味わいにやみつきになるファンが多い。このところ乱立気味の洋菓子で片隅に追いやられた感もあるが、午後のティータイムはぜひこのクッキーで楽しみたい。
◆バウムクーヘン 雑誌記事件数 18件(1971年〜)
古く古代ギリシャ時代から木の棒に巻き付けてパンが製造されていたが、その後、15世紀に卵や蜂蜜を加えた菓子が作られて、18世紀になるとバウムクーヘンが製造されるようになった。
1919(大正8)年、バウムクーヘンが銀座のカフェで初めて製造販売された。中国から日本軍に強制連行されたドイツ人製菓マイスター、カール・ユーハイムが明治屋のカフェで名曲『ローレライ』を歌いながら焼いていものた。1922(大正11)年、エリーゼ夫人と横浜に第一号店を開き大成功をおさめた。翌年、関東大震災で焼け出され、5円札一枚を持って神戸に移住。わずか2ヶ月後には3階建て煉瓦造りの神戸初の洋館にユーハイムがオープンして、大評判となったが、1945(昭和20)年の終戦前日に店主カールが死去。跡継ぎ息子もドイツ軍に参加して戦死した。戦後、1947(昭和22)年、占領軍の命令でエリーゼ夫人は故国ドイツに追放されたが、ユーハイム再建後、1953(昭和28)年、社長に招聘されて亡くなるまで陣頭指揮をとった。
創業以来、バウムクーヘンの製造法は不変。まず鉄の心棒に1メートル以上にわたり生地を薄く巻き付けてオーブンで焼き上げ、20回ほど繰り返し年輪状の焦げ目が出来上がり、ようやく完成する。まさに幾重もの年輪を経たケーキの王様である。年の節目に、来し方行く末に想いを馳せながら、是非賞味したいお菓子である。
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