「本は読むものではなく、引くものだよ」。マスコミ生活50年、かたわら、資料の収集整理に力を尽した大宅壮一らしい言葉です。
 大宅壮一は、ことあるごとに古書市、古本屋通いを続け、およそ20万冊の蔵書を遺しました。生前その資料室は、“雑草文庫”と称され、蔵書のほとんどが雑誌、雑本で占められていました。
 没後の1971年、マスコミはじめ各界のご協力により財団法人大宅文庫(1978年大宅壮一文庫と改称)が設立されました。当初は1日平均2人に満たなかった利用者は、現在1年間でおよそ10万人です。
世田谷本館
世田谷本館 

財団法人大宅壮一文庫 業務報告

大宅壮一文庫の沿革

1944年 大宅壮一、東京・八幡山に居を定める
1951年 大宅資料室(雑草文庫)を創設
1956年 大宅式分類法による資料の整理開始
1970年 大宅壮一死去(70才)
1971年 財団法人大宅文庫設立
1982年 「我が国唯一の雑誌図書館として社会に寄与した実績」により第30回菊池寛賞を受賞
1985年 ファクシミリ資料送信サービス開始
1995年 雑誌記事索引コンピュータ検索(館内)開始
1997年 埼玉県越生(おごせ)町に「越生分館」建設、開館
2002年 Web OYA−bunko(教育機関版)サービス開始
2006年 Web OYA−bunko(法人会員版)サービス開始
2010年 Web OYA−bunko(公立図書館版)サービス開始

評論家・大宅壮一(オオヤ ソウイチ)

 1900年(明治33年)大阪府富田村(現在・高槻市)に父・八雄、母・トクの三男として生まれた。少年時代、各種少年雑誌に投稿、懸賞メダルを多数獲得。米騒動を煽動するような演説をしたということで、大阪・茨木中学を放校。家業の醤油屋を担いながら「専検」に合格し、旧制第三高等学校に進学。
 1922年(大正11年)東京帝国大学文学部社会学科入学。新人会に所属、在学中より健筆をふるう。第二次大戦後、時代の風潮をみごとに裁断する独特な社会評論や人物評論で長くマスコミ界で活躍。自ら“無思想人”を宣言。明快な是々非々論で広く一般大衆の支持を得た。
 新語づくりの名人でもあり、「一億総白痴化」「駅弁大学」「恐妻」などの造語を数多く生み出した。主な著作に、『文学的戦術論』『実録・天皇記』『世界の裏街道を行く』『無思想人宣言』『昭和怪物伝』『炎は流れる』などがある。
 1970年(昭和45年)11月22日永眠。死の直前に大宅壮一ノンフィクション賞が創設され、ライターの登龍門となっている。


大宅壮一ノンフィクション賞について

死の前年にあたる1969年(昭和44年)、大宅壮一発案による大宅壮一ノンフィクション賞が公益財団法人日本文学振興会(株式会社文藝春秋)の協力を得て創設された。第1回は大宅壮一が自ら尾川正二氏に贈呈した。正賞は100万円(当初1,000ドル)。副賞として日本航空の協力による「世界一周航空券」が贈られる。「世界を見てほしい」との大宅壮一らしいアイデアによるもの。

同賞は最も歴史あるノンフィクション賞として、ルポルタージュ、内幕もの、旅行記、伝記、戦記、ドキュメンタリー等のノンフィクション作品を対象とし、ライターの登龍門となっている。

 

『男の顔は履歴書である』
昭和43年暮

 

大宅昌(大宅壮一文庫初代理事長)
 
 1906年(明治39年)、富山県魚津市生まれ。
 県内で教職に従事、出版社の講演会で講師の評論家大宅壮一に見初められ、1931年(昭和6年)に結婚後、評論活動を支えた。
 大宅壮一死去の翌年、1971年(昭和46年)、財団法人大宅壮一文庫を設立し、2007年(平成19年)5月24日、100歳の長寿を全うするまで終身理事長を務めた。
 主な著書に『大きな駄々っ子』『ただ一人の人に』『愉しく生きる老い』『よく生きる よく老いる』『生きて花 老いて華』などがある。

 
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